最近になってようやく、人と会話が噛み合わない原因は基準や定義の違いにあるのだと理解できるようになってきた。
(前回の続きです)
相手の言動が自分の基準に【足りない】と感じることが多かったけど、そもそもの基準が違ったのだ。
前回の記事の話でいえば、「しまなみ海道の70kmサイクリングを【たいしたことない】と考える人もいれば【果てしなく遠い】と考える人もいる」くらいの認識だったけど、
実際のところは、「私と相手との【自転車の定義】が違った」のだ。
私は自転車を電車や車と並ぶ立派な交通手段だと思っているけれど、相手は駅から自宅までの間などのラストワンマイルを埋める手段だと思っている。
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「私は自分をまじめな人間だと思っていたけれど、実はそうでもないのかもしれないなあ」と最初に気づいたのは、塾講師時代。まじめなまじめな塾生が何人もいて、自分と比較して、気づいた。
ところが、自分の中ではこれは腹落ちしていなくて、「【どんなときでも、自分を犠牲にしてでも】一度決めたことをきちんとやる」人を「バカ真面目」「要領悪いなあ」とバカにしてきたところがある。「私はまじめだけど、この人達はバカ真面目」だと。
私の定義の「まじめ」は、「【原則】一度決めたことをきちんとやる」なのだけど、この【原則】がきっと周囲とは違うのだろうと思う。私の定義上は断りを入れるのはとても大事なこと。というか、もはや、【できるときは】くらいの緩やかさだ。
だけど、一般論の「まじめ」はこんな断り書きなんかないだろう。むしろ「【どんなときでも、自分を犠牲にしてでも】一度決めたことをきちんとやる」だろう。そりゃあ私のことをまじめだと評価してくれる人がいないのも当然だ。
では、なぜ、私は自分のことをまじめな人間だと思っているのか。(今も思っています)
それは、結果的には、「一度決めたことをきちんとやる」ことが多いからだ。なんだかんだで物量としてはしっかり到達することが多い。
理由はいくらでもある。物事の原則論からあまりぶれることがないこともそうだし、体力や精神状態が常に安定していることもそうだし…。要は【どんなときでも、自分を犠牲にしてでも】頑張ることはしないけど、そもそもイレギュラー状態を起こさないから、結果的にコンスタントに稼げる。【できるときは】くらいの緩やかさだけど、デフォルトが【できるとき】であるならば結果やることになる。
こうして理解できてからは、今では「私はまじめだけど、この人達はバカ真面目」だと考えることはなくなった。今は、私の自己認識は「まじめ」というより「要領がいい」に変わった。
「要領がいい」というと、愚直に練習をすることを怠っている印象があるかもしれないけれど、確かに私は【愚直】ではないと思うし。
そして何より「要領がいい」がしっくりくるのは、自分で考えてセレクトしたり工夫したりして、短い期間で成果を上げるニュアンスだ。これはまさに私が意識していること。
もしかしたら「要領がいい」は、一般的には練習の回数を少なくして(時間を短くして)成果を上げるイメージかもしれないけれど、私はいかに短い期間で練習の回数を多くできるかということを重要視しているので、そこも一般とは違うことを認識しておいたほうがスムーズに噛み合うな。うん。
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