自分のことを語れない、自分の言葉を持たない人と話す機会がそれなりにある。
この前びっくりした事例は、数字に落とし込んだ話がまったく通じなかったこと。数字は鉄板のわかりやすさだと思っていたけれど…。
今まで、自分を守るために、他人と線引きをしたり物事を客観的に捉える練習をしてきた。
でも、その線を引くのだってなかなかうまくいかないことがある。この私が話せば伝わるんじゃないかと思うこともある。
根本的には、人はいつからでもどこからでも変われると思っているからなんだろう。
この人は無理って簡単に線を引いて見捨てない力量が欲しくて、私はアウトプットを磨いているから、なんだろう。
実は、自分の言葉を持たない人は、話すのが苦手なだけにとどまらず、聞く(理解する)ことも苦手だ。
なぜなら、自分の言葉を持つということは、自分というフィルターを持つこと。
この場合のフィルターというのは選別機ではなく受信機なイメージ。
だから、フィルターを通さないということは、自分の中に取り込む入口を持たないということになる。
だから、そういう人にひとつの概念をちゃんと伝えようと思ったら、ものすごく時間がかかる。
明らかにピンとこない様子をされるのも、しょっちゅうだった。
私はそういうとき、なんとか手を替え品を替え諦めないで伝えてきたけれど、それは正しいやり方ではないということを思い知った。
冷たいように聞こえるかもしれないけれど、やっぱり受信機がないとどうにもならない。
「話せばわかる」は幻想だ。
自分の言葉を持ち、「私は」を主語にして話すことができるようにならないと、人の話を理解することはできない。
講座をやっていると、本来なら受講生が自分で踏ん張るところに手を出してしまいそうになる。
これは親子の教育でも同じことが言えるけど、本来のその人の領分を犯すことは、どんなことだって決して良くはないのだ。
数字の話が通じなくて疲弊して帰った夜、相手があまりに自分の世界に入り浸り歩み寄ってくれないことに傷ついた。
だけど、同時に、相手の領域に踏み込んだ自分の行為に反省もした。
ちなみにこの人との会話は後日談があって、この人とその関係者からお礼のメッセージをいただいた。
向き合ってくれたことそのものにとてもとても感謝していますと。
そうかもしれない。確かにみんなこの人の自分の無さに気づいているものの、素通りしているのかもしれない。
でも、だからと行って踏み込みすぎるのは違うなと思った。反省。
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