「不安」という言葉をよく聞く。
不安だと聞かされて、その話を聞くと、たいていその実体はない。
明確にわかっていたら「不安」にはならないから、そんなの当たり前なのだが、いつも腑に落ちない。
そのからくりをわかっていても、それでも不安になるメカニズムがいまいちわからない。
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私は年齢や立場上、人にものを教えることがそれなりにある。
そのとき、よく「不安」だと言われる。
まずよくあるのが、理解しているのか不安だという話。
そして、次に、理解はしていてもうまくやれるのか不安だという話。
「不安」だと言っている人に悪気がないのはわかります。
わかりますが、教えている側としては、不安不安言われると、テンション下がります。
教える立場の人間は、その人なりに教え方を工夫したり、ちゃんとうまくやれるように配慮しているつもりだと思う。
少なくとも私はそうだ。
理解していないものを教えられないから、教えられるレベルにまで理解を深めるように努めている。
それでも、不安不安と連呼されると、できてほしいと思っている気持ちがなえる。
教える側の問題ではなく、教わる側の話なんだと言いたいのかもしれないけれど、できないという結果を外から見たら、教える方の責任以外の何物でもない。
いちいちつっかかりはしない。
けれど、むやみやたらと不安になることは、外(相手)から見たらこういう解釈もできるとわかっているのかな、と思う。
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例えば教える側が作るマニュアル。
ものごとを文章にしたり、いかにも正解かのようなものを作ることは、とても勇気のいることだと想像したことがあるだろうか。
文章にしたり形にすることで、それまで曖昧にごまかしていたことが一切通用しなくなる。責任が発生する。
教えるこっちはそういうことを全部乗り越えてここにいるということをどうかわかってほしい。
不安だと軽々しく口にする前に、それを聞かされる相手のことを考えてみてほしい。
私だって人間だから。傷つくよ。
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