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【雑感151】わからないことには、心の窓は開いていないんだな

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今までいろんなところに行ってきたけれど、

その地に降り立った瞬間に「来たー!」と感じるのは、やっぱりダントツで関西地方。

例えば今回(神戸)は、

セルフうどん屋さんで「おネギはうしろにあります〜↑」と言われたとき、「おネギ?そっかおネギか」と、なんだかものすごく実感した。
(語尾が上がるのもまたキタキタって感じる)

だって東京ではおネギと言わないし、そもそもいちいちそういう声かけもしないもん。

言葉にすると馬鹿みたいだけど、「みんながみんな関西弁しゃべってる!!!」というのは、今でも新鮮な驚きなのだ。

ちなみに、私はよく海外に行っているけれど、

その地に降り立った瞬間に急に言葉がわからなくなり、看板も何もかもがわからなくなっても、正直海外に来たなとじんわり思う事はあんまりない。

このわからなさ加減こそ、非日常感が全開なのに、私はあまりをそれを感じられない。

ぽつんとひとり、言葉が通じない世界にいるのに。

 

海外に行くときはこんなに実感が伴わないのに、

日本に戻ってくると、逆にすべての看板も言葉もわかるようになって、ものすごい情報量が目から耳から入ってくる。

ああ日本に帰ってきたんだな、とものすごく実感するときだ。

 

ここから考えると、ある程度自分が「わかる」ことじゃないと、何かを感じることは不可能なんだろうな。

外国語の海に飛び込むことは、明らかにそれが目の前にあって、明らかに違和感をもってもおかしくないはずなのに、

その言葉の意味がわからないから、私には何の情報量もないのだろう。

ポジティブな意味合いはもちろん、ネガティブな意味合いも。

というわけで、今回一番破壊力があった、関西に来た実感が芽生えたこと。

 

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