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【雑感313】「できない」への理解

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私はもともとは出来が良いわけではないので、それなりに苦労して努力して今がある。

こういう人生を送ってきた私は、「それって努力不足でしょ」でなんでも片付けてしまうところがあるのだと自覚している。

自覚しているつもりではあるけれど、なかなか悪いことだと思えないから、ゼロにできない現実がある。

「こんな私だってできたんだから、できるでしょ」と。悪気なんかない。

むしろ「できるよ!がんばろう!」というニュアンスで伝えているつもりだし、

私自身は、「できないよ無理だよ」って言われて悔しかったから、できるスタンスで接してもらえることはとても嬉しいことだと感じてもらえるのではないかと、今でも思う。

大学生の頃、「努力できるのは、才能だよ(私はあなたほど努力はできない)」とめちゃくちゃ優秀な友達に言われた。

大学の卒業式で成績優秀者で表彰されちゃうくらいの人にこんなこと言われて、20歳の幼い私が、褒め言葉とも客観的な事実とも受け取れるわけない(笑)

でも、今この20年間を振り返ってみると、「努力できるのは、才能だよ」とほぼ同義の言葉は何度か聞いてきた、と思う。

「思う」と曖昧なのは、才能だと受け入れることの抵抗があったからだ。だって世の中にはもっともっと努力してる人もたくさんいるし、努力の必要がない優秀な人もたくさんいるわけで。

でも、20年経った今は、少しわかってきた。

私は、健康で、体力があって、集中力があって、自分の考えをしっかり持てる。

私は「できない」ままでいたらその先どうなるかを容易に想像できるから、努力できた。

私は、「できない」ままであることに納得行かない気持ちが当たり前にあって、自分ならなんとかできるのではという「希望」が無自覚であれ、存在していた。

私は、結局、なんだかんだで、できることがそれなりにあった。(結果的に、だけど)

たとえば、これらのことが、物心ついた小学生くらいのころから、43歳の今に至るまで、ずっとキープされている。

うまくいかない現実はたくさんあったけど、これらのものを見失ったことは一度も、ない。

これだけ蓄積してくれば、自分にたいしての信頼感みたいなものは、ある。

これは結構珍しいことなんじゃないのかな、と今は思う。これらのうち、なにかひとつでも欠けたり、安定的にキープできないことなんて、いくらでもあるかもな、と、思う。

 

 

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